教えて、シード君!

京都府西京区阪急桂駅前の学習塾、シードゼミのブログです。毎日の勉強を少しだけラクにTipsを紹介します!

阪急桂駅徒歩1分!京都市西京区に根ざして15年。地域密着だからこそできる、ひとりひとりににあわせたきめ細やかな指導が自慢です!

SEEDゼミウェブページもあわせてよろしくお願いします!

No.321 あなたが動けば「分からない」もちょっとだけ変わるカモ?

2017/06/17

「手向くるや むしりたがりし 赤い花」
小林一茶の詠んだ句の中で、僕が最も好きな詩です。
見田宗介さんの社会学入門という本の中で出会いました。
この詩は自分の亡くなった娘に対して詠んだもので、現代語に直すのなら、「あなたがむしりたがっていた赤い花を、今やっとあなたに供えることができるなあ」となります。
これだけでは全く意味がわからないどころか、一茶は娘の死を望んでいたかのようにも見えてしまいます。
当然一茶は、娘の死を悲しんでこの詩を詠んでいます。
この内容を理解するには、受け手である僕たちが当時の文化背景を理解しておく必要があるのです。
江戸時代には時間の概念が今のように「過去→現在→未来」という物ではなく、具現化されない世界と形になってこの世に現れた世界の2種類の概念で捉えていたといわれています。
また、咲いた花にはもともと、認識できない世界が我々のいる世界に顔を出すというイメージがあるようです。
だから、それを「摘む」というのは避けなければならないわけです。
唯一花を積むのが許されたのが、死者を弔う手向けの花を備える場合。
一茶のこの詩には、幼い娘が生前に真っ赤に咲いた花を摘もうとしたのをとめた経験を思い出して、「そんなお前も死んでしまったから、お前が欲しがったあの赤い花をあげることができる」というものすごく深い悲しみが描かれているのです。
こちらが背景を備えなければこの詩の真意は捉えられません。

僕が不意に一茶のこの詩を思い出したのは、日経新聞に掲載された落語家立川志らくさんが寄稿したある記事を読んだから。
=============================
自分は未熟でまだ小津を理解する知識も経験もセンスもないと思う事が進歩の第一である。私は絵画が好きだが未(いま)だにピカソの魅力がいまひとつわからない。だからといって、ピカソはたいしたことはないと言ったら笑い物だ。まだ絵を観(み)る能力が未熟なだけである。勿論好き嫌いは別。
=============================
何か理解できないものが目の前に現れたとき、それに対する解釈には、自分の知識の範囲で評価を下すのと、自分の知識不足ゆえに理解できないのだと考えるということの2つの考え方があると思います。
言うまでもなく、長い目で成長できるのは後者のほう。
何かを理解するためには、受け手の知識量や背景が少なからず影響すると思うのです。

テスト対策をしていると、たまに、自分のことは棚に挙げて、問題内容そのものに分かりやすさの責任を求めるような姿勢でのぞむ子を見かけます。
教科書に書いてある知識や問題は、いってみれば生の食材です。
いくらそれが新鮮な素材であっても、そのまま口に入れれば当然美味しくない。
それを美味しく口に運ぶためには、自らが調理するスキルを学ばねばなりません。
それが、上で言った勉強外の知識量や背景に対する造詣です。
もちろん僕たちは教科書に載っている生の食材を調理して、皆さんに少しでも「美味しく」味わってもらうのが仕事です。
でも、どうしても僕たちだけでは手の届かない部分だってあります。
例えば、少し薄味だと思ったら自分で塩を振ってみたりという、自らが動くことは絶対的に不可欠です。
試験勉強は、与えられた課題を機械的にこなせば得点がリターンとして得られるというものではありません。
自ら理解しようという姿勢が不可欠なのです。

冒頭の一茶の詩を味わうのにこちらの姿勢が重要なように、勉強を楽しむのには、ある程度受け手の好奇心が必要になってきます。
だからこそ、日頃からいろいろなことに興味を持つようにして下さい。
勉強の枠を超えた物事に対する関心が、めぐり巡って勉強に還元されるはずです。