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ほぼ日刊、SEED君のひとりごと

京都府西京区阪急桂駅前の学習塾、シードゼミのブログです。Facebookで更新しているコラムを転載しております。

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目にみえるもの、みえないもの。

2017/11/15

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「この歌に歌われているような光景は、現代に生きる私たちも目にすることができますが、もしこの歌の意味を知らないままそれを見たらどうなるでしょう。たとえ目では見ていても、もしかしたらその光景は心にとどまらないかもしれません。この歌に出会うことによって、私たちは新たな月の美しさに触れ、それに向かい合ったときの私たち自身の心のありように気づくことができるのです。」
中学1年生の国語の教科書に出てくる「月に思う」の一部分です。
先週の授業で、ある生徒さんからここの意味が分からないと言われて、いい部分を指摘してくれたなと思ったので、ちょっと取り上げてみることにしました。

まず大前提として、僕たちは知らなければ見ることができません。
「目に映っているのだから何でも見ることができる」なんて反論が返ってきそうですが、「目に映る」と「認識する」というのは違います。
たとえば、同じゲームのディスプレイを見ていたとしても、そのゲームについて全く知らない僕が画面に映るキャラクターをみても、「かっこいい」くらいの印象しか残らないかもしれません。
しかし、そのゲームをやりこんでいる人が見たら、それだけ貴重なキャラクターであるのか、そんな使い方ができるのか、そういった様々な情報まで「見る」ことができます。
同じものを見ていたとしても、それに関して知っているのとそうでないのとでは、感じ取ることのできる情報は全く違うのです。
これが「月に思う」で作者が言わんとしていること。
それを踏まえてもう一度下の文を呼んでみると、文の「見え」かたが違うのではないでしょうか。
「たとえ目では見ていても、もしかしたらその光景は心にとどまらないかもしれません。この歌に出会うことによって~気づくことができるのです。」

カイユボットというフランスの画家がいます。
彼の作品の一つ「パリの通り、雨」という作品は「月に思う」で指摘されていることが絵画の世界で表現されています。
http://www.salvastyle.com/menu_impre…/caillebotte_pluie.html
この作品は、雨の日のパリが描かれているのですが、「雨」だけは描かれていません。
もちろん描き忘れなんてことではなく、作者にとって「雨」は見えていなかったのです。
冒頭で話した生徒さんの質問に対して、僕は「雨の日の絵を描いてみて」と言いました。
すると彼は迷わずに傘をさした人、と、細い線を縦に引いて「雨」を表現しました。
「雨を描け」と言われれば、殆どの人が彼のように雨を表現すると思います。
さてここで疑問が浮かびあがります。
はたして本当に雨は「細い線」なのでしょうか?
実際の雨は粒が空から降ってきているわけなので、一本の線ではありません。
しかし僕たちは雨を描けといわれればそう描くし、実際に雨がそのように見えていると考えています。
この「そう見える」というのがポイントなのです。
画面に細い縦線を並べると雨を表現できるという技法が使われたのは、実は浮世絵が世界初めてです。
カイユボットがこの作品を描いたのはヨーロッパに浮世絵が広まる少し前のことです。
だからカイユボットは「見た」ままに雨の日のパリの通りの風景を描いた。
それまでは「雨が線で見える」という認識そのものがなかったのです。

「芸術のいいところは作者の発見した『美しい』っていう発見を僕たちに共有してくれるところにある」
漫画家の山田玲司先生がこんな風に言っていました。
絵画や歌といった昔の芸術作品を味わう楽しさは、まさにここにあるのだと思います。
そして「月に思う」で言われているのはまさにこのこと。
「知らなければ見ることができない」という意味、なんとなく分かっていただけたでしょうか?

因みにカイユボットのこの作品、レプリカが難波駅に飾ってあります。
興味のある人は是非見に行ってみて下さい!